ー成功し続けることのそ秘訣は?
山本:45年間、ファッションのメーンストリームではなく陽のあたらない棘(いばら)の道を歩き続けてきた。これが今日までクリエイションを続けてこれた理由だ。
ーそれを踏まえて、ファッションデザイナーを目指す人たちへのアドバイスは?
山本:若いデザイナーや学生の前で話す機会があればいつも言うのが、何か知りたいことがあるときにインターネットを使うなということだ。自分の身体で歩き、触れ、嗅ぐ。“体験”という言葉は、“体”で“験(ため)”すという意味だ。頭でしかものを考えられないヤツは、デザイナーにはなれない。
山本耀司さんは御年78歳(2022年2月現在)
生まれてすぐに戦争で父親をなくしたこと、政府から嘘の報告(マニラ島で戦死と書かれた封書が届いたが実際は行きの船が撃沈されて亡くなったそうです)を受けたこと、親戚一族から強制的に葬儀を行なわされたこと等々、そういったことに対する不満が下地にあるようです。
根本には怒りや反骨精神が強く感じられ、尊敬する作家の方々はだいたい同じようなことが根っこの部分にあるように感じます。(唯一そういうのはないと言っていたのは美術作家の大竹伸朗さんです。いつかここにも登場する予定です。)
とくに最近ではそういった強いエネルギーを持ったデザイナーが東欧などの経済的に厳しい地域から多く出てくるそうです。
毛沢東が成功する人間に必要な資質についてこんなことを言っていました。
成功することにおいて必要な資質、それは『若いこと、貧乏であること、無名であること』
これは飽食の時代で満たされきった人間にはハングリー精神がわかないということだと思います。特に今の日本は景気が悪いといえど、土を塗り固めて作った家に住んでる人が溢れてたりはしませんので。(ダンボールで作った家に住む人はちょいちょいいますが)
美大に来ても卒業後も絵を続けていく人が全体の1~2割というのもなんとなくわかる気がします。
山本耀司さんは慶應義塾大学法学部出身で、東京芸大も2次試験まで合格していたらしいですが、3次試験の日程が慶應と被っていたため慶応の試験を受けたそうです。理由としては法律家になって母を喜ばせたかったとの思いから慶応を選ばれたとのことです。これは中々凄いことで、おそらく日本の美大生で芸大に受かってかつ慶応にも受かれるような人は殆どいないと思います。
1970年代初頭、ヨーロッパはオートクチュール(一点ものの注文服)からプレタポルテ(既製服)への転換時期でありました。パリでは1968年に五月革命が起こり、パリ大学の学生を中心とした時代の閉塞感を感じた若者の反体制運動でその影響はファッションの世界にも及び、上流階級向けの伝統的なオートクチュール(高級注文服)は古臭いという考えが広がり、不特定多数のための既製服が普及しました。
イブ・サンローランなどの若手デザイナーが従来のモラルや慣習を打ち破るような服を次々に発表し、社会のエネルギーがファッション界にも波及するような大きなうねりがありました。
またこれは芸術方面にも言えることですが、今まで一点ものの高級品であった絵画をアンディーウォーホールはシルクスクリーンを使い大量生産での作品制作を行いました。扱うモチーフも伝統的な絵画としてのモチーフではなく、キャンベルスープの缶からマリリンモンロー、エルヴィスプレスリーから電気椅子まで、その時代を反映したものを取り入れています。こういったことはファッションだけではなく芸術全般において波及していきました。
1969年、文化服装学院のコンペなどの賞金でパリに渡った山本耀司さんは当時のことをこんな風に語っています。
『カフェに座っていると、ソニア・リキエルなど、当時人気が出始めてたブランドの既製服できめているひとが回転ドアから入ってきました。僕が文化服装学院で習った注文服の手法とあまりに違う。もうオートクチュールの時代ではないことを目の当たりにし、ショックを受けました。』
中略
『安いワインを飲んで、ビリヤードで賭けをする。絶望のどん底に落ちていくような感覚でした。絶望というより堕落という感じです。落ちていく心地よさも同時にあったかもしれません。当時のパリには女優や芸術家を目指す日本人がいましたが、ひとかどの人間になれると信じて、結局は精神的におかしくなってしまう人もいました。自分もいつそうなってしまうかもわからないと思い始めると怖くなり、逃げるように帰国しました』
その後帰国して実家の洋裁店を手伝うことになります。
そして1982年、コムデギャルソンの川久保玲さんと同時期にパリコレクションに出店し、どちらも黒が基調の随所に穴が開いたり裾が裂けたりした洋服を出品したことから大きなセンセーショナルを巻き起こします。
今ではこういったものもファッションの一つとして見慣れたものですが、当時タブーとされていた黒を大量に使うことやボロボロに加工された服を見たヨーロッパの人たちはすごい衝撃(『黒の衝撃』』と実際に言われています)を受けたたようです。それは大きな賛否を呼ぶことになりました。
ちなみに余談ですが私は受験予備校時代よく石膏デッサンを描いていて、かなり疑問だったのがギリシャ神話をベースにした石膏像の出で立ちでした。
こちらは闘神『マルス』という石膏像ですが、全裸でヘルメットを被って槍(左手に持っている設定らしいです)を持ってるって…色々守るとことか着用するもの違くないですか神様…?って思ってました。裸にヘルメットで槍持つって、現代だったら相当ヤバい変態だと思うんですよ。顔もちょっといけない薬とかやってるようなトロンとした感じだし(笑)
さらに頭は本来こういう羽根飾りみたいなのが付いてたらしいです。もうサンバ!ですね。
奥さんから『駄目よパパ、ちゃんと洋服着なくっちゃっ!!』って止められてます(笑)ヨウジヤマモトの穴あきルックとかイヴ・サンローランのシースルールックどころじゃない、もぉノールックです(笑)
話がズレたので戻します。
山本耀司さんの洋服は黒くてダボっとした洋服が多いのが特長です。
『言葉では表現しにくいのですが、シルエットと布地の動きが大切です。体が前に動いた時に、後ろにシルエットがちゃんと残る。コンマ何秒か遅れて服が後ろに残る。その瞬間がものすごくきれいなのです』
『天然素材は生き物のようなものです。極論すると、その布がどういう服になりたがっているか。布を手にしたときの重さや軽さ、垂れる感じやを落ち感で考えるんです。「タッチ」(手触り)がすべて。それをシルエットや動き、分量、そして具体的なイメージと合体させていく。ただ、そういう作業を何回繰り返しても、最終的にどうなるかは想像できません。クリエーションは発見です。発見できるこころの幅を持っていないと。それを見逃してしまう。そういう意味で、見逃さないのがプロなんでしょう』
例えば女性の髪の毛やスカートが風になびいているのをみると、私はそういうものにとても魅力を感じるのですが、言っていることはそういう感覚に近い気がします。
また布の動きがどう動くかを考えるということですが、これは絵の具や墨などの動きが画面の中でどう動くのかを考えるのと同じです。絵の具が画面の上でどのように流れようとしているのか、人間が完全にコントロールしない(出来ない)偶然性を生かすところに人の意識を超えた大袈裟に言えばそういったエネルギーが作品の力になっていきます。そしてその偶然性を自分の方に引っ張り込めるかが勝負なのです。その現象は自分の意図を超えたまさに事件が起こる現場なのです。一色キャンバスに置くとそこからイメージが広がっていく。それは色を実際に置いてみなければ発動しない感覚です。
で、こちらのネクタイは先日渋谷のヨウジヤマモトで買ったものです。
『引責辞任』と『適応障害』、こいつ何考えてんだって感じですね(笑)
これは自分の仕事を退職した時用に買いました。といっても退職するのは西荻窪の仕事以外で雇用契約を結んでいる職場に関してです。自分のアトリエを辞職するということではありません。
職場を辞める時はネクタイをして行って最後に集合写真を撮る時にこっそりジャケットのボタンを開いて私が退職した日のあとに写真を確認したら『引責辞任』と書いてあったというのがやりたいです(笑)今はデジカメとか携帯のカメラが殆どなので、その場で確認されると現像までの確認時差が生じないのが少し残念ですが。
訪れた渋谷のお店の店長さんは今から20年ほど前にヨウジヤマモト社で働き始めたそうです。
働き始めた当初山本耀司さんに言われた印象的な言葉があり、それは自分が働いている場所がどこの店舗であったとしても、自分のいる場所『そこがヨウジヤマモトの本店だと思え』と言われたそうです。これはすごいカッコイイな!!と思いました。もぉこの言葉だけで『命賭けます!』みたいな気分になりそうですね。
そして何かで一番になる人間というのはこういう気概が必要なんだとと思いました。
ちなみに寺山修二は人からあなたの職業はなんですか?と聞かれたとき『職業は寺山修二です』と答えたという逸話があります。また面白かったのが『そこに光がなかったっとしても自分自信が光ります』みたいなことをスター錦野さんは仰っていました(笑)
ほかにもいろいろなお話を聞いたのですが、山本耀司さんは服を作るとき最後に服に『怒り』を込めるのだそうです。
『この怒りやエネルギーははどこから来るのか。以前にも話しましたが、幼いころ、おふくろが洋装店をやっていて、おやじの戦死を知らせる通知が来た。おふくろはそれでもあきらめないでいたけど、親戚がお葬式をしなさいと言って洋装店で稼いだお金で葬式をやらせた。幼心に腹が立ちましたね。こいつらの仲間にはならない。一般的な社会には参加しないと思った。人間のなにものであるかは、DNAじゃなく、幼少期で決まるというのが僕の個人的な思いです』
この『怒り』というのは結構な数の作家が口にしていて、村上隆も宮崎駿も川久保玲もどこかで見たチーズ酪農家のおやじまでもが(笑)みんな根底には非常に強い怒りがあり、結構よく怒っている姿を見ます。怒りがないとものが作れないというのはあるのかもしれません。
鳥山明さんが最後はあんなに穏やかな、祈りのような画風になるのもその怒りが消化されたからなのではないかと思ってしまいます。
また2021年のコロナ渦において湾岸戦争時にも出展していたコムデギャルソンがパリコレクションを断念し東京でのショーに切り替えました。その時日本では唯一ヨウジヤマモトのみがパリに渡航し現地でのショーを行いました。
なぜそのような状況下でもパリに行くのか?と問われたとき山本耀司さんは『それが自分の存在理由だから』と答えていました。
単純な格好良さではなく人としての気骨さをすごく感じますし、それが服に現れていると思います。
ー日本の女性のファッションをどう思いますか?
『1960-80年代に比べると、今の日本の女性のファッションは堕落しております。保守化し、堕落しています。要するに本人の意思がはっきりしていない。で、流行のものを着ている。何かのグループに属することをよしとしている。その人だけの特別なものという感覚がほとんどなくなってしまった。60年代から80年代には「うわーっ、かっこいい」という女性がたくさんいたんですよ』
『ファッションというものは物書きでさえ書けない、言葉にできないものを形にする最先端の表現だと思っています。だからどんなに知性があってもファッションをばかにしている人は信用できない。たとえ評論家や建築家であってもです。着ている服でその人が本物かどうかわかります』
ーデザイナーを目指す人に言いたいことは?
『命と取り換えても作りたいのか』と。
ーファッションデザイナーに未来はありますか?
『地球がある限りはあるでしょう』
山本耀司さんや彼の作る洋服は、私自身ものを作るときに非常に強く影響を受けています。ほかにもそういった方々が何人もいますがみなさん共通しているのは大半が70歳を超る人ばかりです。そう言った方々の活動をあと何年見られるのか、とても考えます。それと同時に自分もものを作ることに携わる以上、そういった人の姿を眺めるのではなくて、自分自信がその人たちの前へ行くような意識を持たなければ何かを作る意味はないとも思っています。
今回のブログを書くのには随分時間がかかってしまいましたが、あと98人います。先日100人分の名前をリストアップしてみたら一応100人には到達していました。とくにこれを書くときに私は『怒り』を込めたりはしないのですが、どちらかというと読まれている方々が早く書けよと『怒り』を持っているのではないかと思いながら恐る恐る書いております(笑)それが私の原動力です(笑)これから残り98人も頑張って登場させたいと思います!
参考図書
・服を作る モードを 超えて増補新版
・ALL About Yohji Yamamoto from 1968 山本耀司。モードの記録。
・都市とモードのビデオノート(DVD)
・DEAR MY BOMB
・山本耀司が一問一答 「知りたいなら検索するな。頭しか使わないヤツがデザイナーになれるはずがない」 https://www.wwdjapan.com/articles/525048
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